労働は負

9月から週4日労働になるので週5日労働している内に書き出しておく。

根底にある考え方

「一巻の終わり」という言葉がある。自分の死に対する考え方である。死んだ後に残るものは何もないし何をしたとしても死んだ後は平等だ。生きていること自体に価値はない。つまり生きている以上「幸福だ」と感じていない限り死んでいる状態以下であり、将来的にプラスに転じる可能性がないなら死んだほうがマシ。

働く前の労働に対する価値観

労働する前、なぜ働かないといけないのかわからなかった。高校受験の時に将来の職業を決めることができなくて親に「なんでしたくもない仕事で週5日働かんといかんの?」と聞いたことがある。「したいことは見つからないのが普通だよ」と答えてくれたことを覚えている。繰り返しになるが平日を全て労働に捧げるということは「労働が幸せ」な場合、若しくは「休みの幸福度が5日の労働を上回る」場合でしか生きている意味はない。当時の自分にとって「労働が幸せ」はありえず、2日の休みは5日の労働を埋めることはできない。後者の考えは今でも変わらない。当時の自分にとって労働とは負であり社会人≒地獄だった。
ここから労働に対する価値観が生まれている。労働は生きていく上でマイナスである。実際に働いてみてぼんやりとした予想が事実に変わった。自分にとって週5労働はキャパシティを超えている。じゃあなぜ現時点で辞めていないのか、自分でも無自覚だったが最近やっと形になってきた理由がある。

労働を続ける理由

「社会と接する」という意味があると思っている。*1人と関わらずとも楽しく生きることはできる。ただ世の中のコンテンツは多数派に向けて作られているし社会参加しないとどんどん「人」と価値観がずれていく。「人」から離れた時、「人」が楽しむものを楽しむことは難しくなるし楽しめるものの範囲はそれだけ狭まる。常識に合わせることはそれだけ楽で手っ取り早い手法でもある。金を稼ぐという意味が先行しがちであるが社会参加しているというコミュニティ的な幸福は少しだが確かにあった。*2
労働は何のためにするのだろうか。明日10億手に入ってそれでも仕事を続けるという人は何人いるだろうか。そういったフラットな観点から向き合って収支がマイナスであれば辞める、という考えを常に意識していきたい。

これから

未だに労働に対する上手な付き合い方はわかってない。常に東南アジアに飛んで大麻でもコカインでも吸ってヤケになりたい気持ちが心にある。ただ探せば自由な雰囲気で働かせてくれる会社はあるし実際2年目の自分に対して週4日という働き方を認めてくれている会社もある。
社会参加、ある程度の自由に使えるお金。この二つに加えて自分が好きに働けているうちは労働を続けるだろう。現状の理想はもう一日2時間ほど時短して週4日。またなんか考えが変わったらまとめると思う。

*1:もちろんこれが仕事である必要は全くない。働くと職場の人間との付き合いが自然と発生するので手っ取り早いからだ

*2:労働をしなかった場合の幸福を1とした時に労働をすれば1.1~1.2になるというくらいの程度だが